今さらの「君の名は。」感想

まさか3年ぶりのブログで映画の感想を書くことになろうとは全然思っていませんでした。ただ僕が発信に使っているのは、最近TwitterとFacebookばかりなので、こんな長文はなかなか書けません。そういうわけで、ひさしぶりにこのスペースを使うことにしました。

まず注意点。四十代のおっさんが書いていると思うと終始気持ち悪いです 笑。それに耐えきれなさそうな人は読まないでくださいね。

この映画、映画館で7回見ました。最初に見たのは9月なので、実は結構早いうちに見てます。でも今さらこんな感想をアップしようと思ったのにはわけがあるのです。

実は、7回のうち3回が今月になってから。この時期になると、映画館での昨年までの熱気はなくなっていて、レイトショーだとお客さんが全部で3人とかになっていました。そんな中で「君の名は。」を改めて見て、僕の中でこの映画に対する感じ方がまた次のステージに行ったんだと思うのです。

要するに、僕はパーソナルスペースが大きくて、近くに人がいるとどうしても集中できないようです。だから満席の頃は緊張していて、映画に集中できず、ほんとうの意味で深く映画を見られていなかったのです。もし僕と同じような性質の人は、いまこそ見に行くべきなんだと思いますよ。

さてここからが本論です。
つまりネタバレありですから、ネタバレを見たくない人は以降は読まないでください。


まず僕がいちばん心を惹かれたのは、やはり三葉です。四十代のおっさんになっても、好きなものは仕方ありません。そのことはあとで詳しく触れます。

その一方で、瀧くんが嫌いかいうと全くそうではなく、純粋にかっこいいと思えます。また僕にはとても真似できないとも思います。そもそもおっぱい揉むだけで、そこで踏みとどまれるんだからスゴイ…(以下、自主規制)
下ネタを書く気はないので、純粋に彼のかっこよかったところを書きます。

最後の入れ替わりで彼が三葉になったとき、自分なら三葉の身体で、自分だけ町から逃げてしまっていた気がします。このままここにいれば死ぬことがわかってるなんて怖くて怖くて。それに三葉を助けるだけならそれでいいわけですから。

でももしそうしてしまえば、三葉は自分以外の家族、親友全てを失う未来が待っているわけで、彼女の瀧くんへの思いは少し違ったものになっていたでしょう。そうすると将来の再会もあったかどうか。そう考えれば、やはり瀧くんが三葉だけでなく町全体を救おうと考える人で良かったと思うわけです。僕には絶対できないわ…

それから、新海監督が第二弾のパンフレットでのインタビューで答えていることと同じで、もし自分が瀧くんだったら、もっと早い段階で諦めていたでしょう。旅館のシーンの、「全部、俺の妄想…」で納得して終わり。そこでもあきらめない瀧くん。かっこいいです。

では、ここからは三葉の話。
三葉ももちろん毅然とししてかっこいいのですが、やはり僕としては「かわいい三葉」に惹かれてしまいます。

まず一つ目。
三葉かわいいエピソードの王道ですが、瀧くんに会いに東京まで行くシーン。「迷惑かな」「嫌がるかな」と心配しておきながら最後に「少し喜ぶかな」と期待してるとか最高です。

二つ目。
これも王道。そんな三葉が東京で中学生の瀧くんに、「誰、おまえ?」と言われてしまいます。「会えば絶対わかる」と信じていた三葉。こんなショックないですよね。傷心の三葉が髪をおばあちゃんにバッサリ切ってもらうシーンもせつない。

そんな彼女が、今度はカタワレ時にようやく高校生の瀧くんと出会うわけです。時間的には3年が経過しているわけですが、彼女の中では東京に行った翌日。昨日「誰、おまえ?」と言われた人物からやさしい笑顔で目の前で「三葉」と名前を呼ばれれば、そりゃ「瀧くん、瀧くんがいる」と泣きながらたまらない笑顔にもなりますよ。気持ちも痛いほどわかるし、三葉がこんな顔するんだと、見ている方も彼女の本当のかわいらしさを実感する瞬間でした。

ついでに言うと、その後のやりとりで三葉が「ほんと、この男は!」と横を向いてむくれるシーン。このちょっとブスな感じの三葉、これもファンにはたまりません。

そして三つ目。
ラストシーンの直前。「ずっと誰かを探していた!」とドア越しの向かいの電車の中に瀧くんを見つけたときの表情の変わり方!そして、次の駅で降りて必死に走って探しに行く三葉。これもたまりませんよね。

三葉について語りだすと、とどまるところを知らないのですが、どんどん僕の気持ち悪さが増すので 笑、このくらいにしておきます。

他にもこの映画の魅力は、まだまだあります。
特に複数回見た人にはわかるかもしれない楽しみ方について。

1回目に見たときはそれほど印象に残っていなかった、最初に瀧くん(姿は三葉)が御神体に行くシーン。この場所があとでどれほど重要になるかを知ってから見ると、あの風景がばーっと見えてくるシーンでもう泣けてきてしまいます。あのときのBGMを聞くだけでも鳥肌モノ。

加えて、このシーンでのおばあちゃんのセリフ「よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。それが組紐。それが時間。それが、ムスビ」 。僕がすごいと思ったのは、「ムスビ」の概念の中に、途切れる、戻るが含まれていること。でもこれが後半のストーリーに効いてくると思うと、また背筋にゾワッとしたものが走ります。

神や仏への信心がまるでない僕が、なぜムスビに"なぜこれほど心を締め付けられるのだろう"(劇中のセリフに重ねてます。ぜひ瀧くんの声でリピートを 笑)。でも時間の概念については、なぜか納得させられてしまうんですよね。不思議です。

ほかにも2回目以降で印象が変わったものとして、RADWIMPSの劇中歌。

おじさんだから、初回見た時は正直うるさいなと思ってしまったのです。音量でかいし、歌詞もバンバン聞こえてくるしストーリーに集中できないなと。でも何度か見るうちに、それをどう理解すればいいか"だんだんわかってきた"(これもセリフ。三葉の声で!笑)。

新海監督は歌詞を聞かせたい、見る側は聞かなければいけないんだ、歌詞の中味も頭に入れた上で、そのシーンを見ればいいんだと。正直情報量が多くて、頭の中は大変でしたが、それがわかってからは、この場面にはこの曲がぴったりハマっていることがわかります。いや、曲がなければダメなんだと思えるようになりました。いまでは、曲を聞くだけで身体中がじわっとなります。

こんな映画を作ってくれた新海監督には感謝の気持ちでいっぱいです。

だからと言うわけではないですが、この映画を見てから監督の過去の作品のうち「ほしのこえ」「秒速5センチメートル」「言の葉の庭」の3作を見ました。過去の作品と「君の名は。」との違い、いろいろ語られています。それらの一部受け売りもありますが、僕が感じたのは、前半部分の明るいストーリー展開。キャラクターたちも明るいし、ポップでコミカル。初見でRADWIMPSの「夢灯籠」が流れるオープニングを見たら、多くの人がこれからワクワクするラブストーリーが始まると騙されてしまいます。それが後半部分のあの急展開。このギャップ、新海監督恐れ入ります。

ただ、いい映画だからこそのデメリットもあるわけです。ハマると廃人になってしまうんです。三葉ちゃんかわいい、とか。妄想の世界で遊んでしまい、現実の世界から逃避したくなるのです。(僕個人の問題かもしれませんが…笑)

ここまでハマるとまずいわけですが、もちろん映画の楽しみ方は人それぞれで良くて、きゅんきゅんするラブストーリーを楽しんだり、よく練られたストーリー展開をハラハラしながら見たりでも十分だと思います。

でも僕の場合、廃人になってしまいそうなので、それを避けるために、自分の現実に活かすとしたらどうすればいいのか考えました。

一生懸命な主人公二人を見て、自分もこんなに何かに一生懸命に取り組んでいることがあるだろうかと自問すること。歳を理由に冷めてないだろうか、あきらめてしまっていないだろうか。無難に周りともうまくやることでごまかしていないだろうか。

瀧くんが、三葉だけでなく町のみんなを救うために必死になっているシーン、その思いを引き継いだ三葉が町役場まで泥だらけになりながら走るシーン、ラストシーンで居ても立ってもいられない二人が駅を降りてお互いを探しに走るシーン。。。それを思い出しながら、僕もまだまだ残りの人生で一生懸命攻めることはできるはずと思うのです。

それは他人のためでももちろんいいのですが、自分のためでも一生懸命になれることならOKな気がします。最近の風潮として、他人のための行動ばかりが過剰に賞賛されることには違和感を覚えているので。「君の名は。」のラストも純粋に自分たちが「探していた人に会いたい」という思いだけで一生懸命になるのも良かったじゃないですか。

まあそんなわけで、この映画が良かっただけではなく、自分の意識を変えるきっかけにできればと自分にも言い聞かせているところです。

中途半端な終わり方ですが、今日はこんなところで。

なかなか周囲に、「君の名は。」を熱く語り合える人がいないので(妻も冷たい 涙)、もし四十代のおじさんでもよければ語り合いたいという人がいらっしゃいましたら、コメントをいただくか、プロフィールのリンクからメールをいただければ返信しますね。

(実は「映画 聲の形」は映画館で8回見ました。「君の名は。」より1回多いのです。こちらも感想を書きたいのですが、なかなか頭の中が整理できない映画なので。。。また気が向いたら書こうと思います。)

Story_scene

(「君の名は。」公式サイトより)

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ジャンプ競技、今日から本番。がんばれ葛西!

今夜の個人ノーマルヒルからついにソチ五輪のジャンプ競技が始まる。

葛西紀明のジャンプに魅了されて今年でちょうど20年。その間好きなスポーツ選手を聞かれれば彼の名前を答え続け、「誰それ?船木や原田なら知ってるけど」という視線にもめげず応援しつづけてきた。日本ナンバーワンの実力者でありながら長野五輪の金メダルメンバーではなかっただけで国内ではこの扱い。本人の悔しさはどれ程のものだったのか。でもその悔しさも今年で終わらせよう。ソチ五輪のヒーローは君だ。本命は個人ラージヒルだが、もちろんノーマルヒルでも狙ってくれよ、表彰台の頂点を!

先週も書いたように、号泣の準備はできてるからね!

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ソチ五輪でも葛西紀明選手を全力で応援します

再開などと言っておきながら、ずっとほったらかしのブログのアクセス数が最近少し増えた。どうしてかなと調べてみると、「葛西紀明」を検索して来てくれた人がいる様子。そういえば前回のバンクーバー五輪の頃、熱く語ってたなと思い出して、過去のブログを読んでみた。するとなんと「おそらく最後のオリンピック出場となるバンクーバー」などと書いているではないか(゚д゚)! ⇒【スキージャンプ】葛西紀明選手

長年のファンの僕でさえ、7度目のソチ五輪出場まで当時は予想できていなかった。でも本人があきらめていなかったのに、ファンがこんなことを書くなんて失礼極まりないこと。葛西選手、本当にごめんなさい。それが言いたくて、久しぶりのブログ更新でございます。

でも言い訳ではないけど、スキージャンプで40歳を超えてオリンピックなんて想像できなかったことも事実。W杯の最年長優勝記録の推移を見てもそれがわかる。

今シーズン葛西選手が10年ぶりにW杯で優勝して41歳の最年長記録を作ったけど、実は彼が10年前に勝ったときも31歳で当時の最年長記録だった。要するにスキージャンプという競技は10代、20代が一線で活躍できる年齢で、それ以上は無理というのが常識だったのだ。

ところが、その後も葛西選手と同じ北海道下川町出身の岡部選手が38歳でその記録を塗り替え、ついに今年葛西選手が記録を40代にまで延ばしてしまった。スキージャンプ界の常識を日本人が、というより下川町民二人で変えてしまったというわけである。

少し話はそれるけど、葛西選手のW杯初優勝は確か1992年で19歳。それが当時の最年少優勝記録だと聞いたこともあるのだが、調べてもなかなかわからないので、もしご存知の方がいらっしゃったら教えていただければ嬉しいです。いずれにせよ、彼は遅咲きどころか、中学時代から注目されていて、一線で20年以上活躍し続けているというとんでもないスキージャンパーなのである。

要するに何が言いたいかというと、「葛西はすごい!」

先ほどNHKサンデースポーツの開幕直前のソチからの中継で、海外メディアが注目する日本選手でいちばん名前が出るのが葛西選手で驚いたみたいなことを言っていた。葛西のすごさは気付いてないのは日本メディアだけなんだよ!野球やサッカー以外のスポーツにオリンピックの時しか注目しないから気付かないんや(怒)

と、軽くひと怒りしたところで、そろそろオリンピック前の最後のW杯のビリンゲン大会をネット観戦で応援します。葛西選手得意のビリンゲンで優勝して、その勢いでソチに乗り込んでほしいものだ。

もちろん女子の高梨選手のように金メダル最有力候補ではないけど、今年の男子はW杯でも大混戦なので、10人くらいに金メダルのチャンスがある状況。W杯総合ランキング3位でオリンピックを迎えられるなんて、20年前のリレハンメル五輪以来の大チャンス。

前回のバンクーバーの時も彼が金メダルを取ったら号泣すると言っていたけど(⇒バンクーバー五輪 スキージャンプ予想)、今回は号泣じゃすまない。ほんとに可能性あるからね。そろそろ泣く練習でもしておこうか(笑)

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ブログ再開

7月1日から、ひさしぶりに月曜から金曜のフルタイムの仕事を始めた。やっぱり以前よりは時間がないので、TwitterもFacebookも発言は大幅に減ったし、このブログの更新も滞ってしまった。

ようやく仕事にも慣れてきたので、今日からぼちぼちこちらのブログも更新していこうと思う。まあ無理のない範囲で、ぼちぼちと。

しかし世の中には、めっちゃ忙しいはずなのに、すごい勢いでTwitterでつぶやいたり、ブログも毎日更新してたりする人がいる。どういう時間の管理をしてるんだろう。それとも忙しそうにみえて、実は結構余裕があるんだろうか。

まあ僕には真似できそうにないし、無理に真似する必要もない。マイペース、マイペース。

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希望者全員、65歳まで雇用義務付け、、、なんやそれ

「希望者全員、65歳まで雇用義務付け」

あくまで提言なので、まだ決まったわけではないけど。

報道によると、

厚生労働省の「今後の高年齢者雇用に関する研究会」は、希望者全員が65歳まで働けるよう継続雇用を義務付ける制度が必要との提言を大筋で了承した。

らしい。

希望者全員、65歳まで雇用義務付け 厚労省研究会提言
65歳まで希望者全員雇用を 厚労省研究会が報告書

若い世代は希望しても就職できない時代に、この世代は希望者全員が働き続けけられるわけだ。ひどい話である。

背景に年金支給年齢の引き上げがあるのは、もちろん知っている。

だったら、定年制度を禁止して、働く意欲と能力のある人は70歳だろうが80歳だろうが働き続けられるようにすればいい。ただし、能力や仕事の内容に合わせて賃金を簡単に上下できるようにして(大事なのは簡単に下げられること)、それでも賃金に見合わない人は辞めてもらえるような仕組みにするのが筋というものだ。

そうして雇用の流動化を進めて、いま40代以上に偏っている安定した雇用を若い世代にも公平に回すべきだ。

それでどうしても職につけない人、生活が苦しくなる人については全て、年齢に関わらず社会保障の仕組みで救う、そういう社会を目指すべきであって、小手先だけで制度をいじって、大きな問題は見て見ぬふりをして先送りするのはいい加減やめてほしい。

もちろんそういう社会を目指すといっても、すぐにできるわけではないだろう。だからと言って、目指さなければ結局何も変わらない。もう付け焼き刃はやめて、一歩ずつでも進まなければ。

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作文が苦手でした

僕は子どもの頃、本当に作文が苦手だった。それも尋常じゃないレベルの苦手度で。

確か小学五年か六年のとき、自由に作文を書きなさいという授業があった。3時間かけて原稿用紙に書いたのが、一行目はタイトルが思いつかないのでブランク、二行目に学年と組と名前、三行目に「僕は」の2文字。それだけ。だって本当になに書いたらいいのかわからなかったので、その頃は。

正確に言えば、なにを書いたらいいのかわからないというより、考えていることをどう表現していいかがわからなかったんだと思う。いろんなことに興味もあったし、小学生のくせに新聞やニュースが好きなマセたガキだったので、いま考えれば書くネタはいくらでもあったはずだからね。

そもそも作文は「僕は」で書き始めなければいけないといった類の思い込みも強くて、自分を縛っていたことも大きかったのだろう。

その頃の小学校の先生は結構残酷で(いま思えばそれでよかったと思うけど)、全員の作文を教室の後ろの壁に貼り出すのよね。だから僕だけ、「僕は」しか書いてない真っ白な原稿用紙が貼られたわけ。そのときは恥ずかしいというより情けなかったような記憶が残っている。

中学生になっても苦手意識は変わらず。とはいえ、大阪府は府立高校の入試問題に必ず作文があったので、これは書かなければマズい。でも作文を書くという苦痛な作業はできるかぎり避けたい。

学校で府立高校の模試を何度か受けさせられたのだが、そのときも一切作文は書かなかった。ブランクのまま提出。作文を書くという苦行は、本番一回で十分だと思ってたから。

それで府立高校の入試の本番。前日から「明日は作文書かなきゃいけない」と胃が痛くなって吐きそうだったが、本番になると意外にあっさりと書けたのだ。それも自分でも満足できる内容で、そのうえ字数を考えずに書いたのに、ぴったり字数制限の文字数に収まるという奇跡的なおまけ付き。

徐々に作文が書けるようになったのは、それからだ。もちろんすぐに劇的に得意になるわけではないが、少しずつ苦手なりに書けるようになった。

要するに書かず嫌いだったのである。僕の場合、入試という強力な強制力がきっかけになったのだ。

今でも決して文章を書くのが得意ではないが、昔に比べれば雲泥の差だ。なにせ別に頼まれもしないのに、こんなブログ書いてるくらいだから不思議なものだ(笑)

若い人と話をしていると、「私は○○が得意だから、それを活かしていきたい」とか「得意分野を伸ばしたい」と言う人がいる。もちろんそれは大いに結構。でもいま苦手と思っていることをあきらめるのは、まだ早いんじゃないかな。

一度や二度チャレンジしただけで苦手だと決め付けるのはもったいない。もしかすると、三度目から急にできるようになって、将来は誰よりも得意になるかもしれないんだから。

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トイレの修理代

先日実家で尿意を催し、トイレに入った。普通に事を済ませ、水を流したところどうも様子がおかしい。水が流れたあと、タンクに水が補充されていないようだ。

なにか変わった排尿方法を試したわけでもないので、僕のせいでは無いはず。ただ、トイレで他人に見てもらうという変態プレイの経験もないので(笑)、ほんとに普通の排尿方法なのかはわからないけど。。。

父と二人でタンクを開けたりして調べてみたが、原因はわからず。結局、業者に連絡して翌日に修理に来てもらうことになった。

僕はその日のうちに自宅に帰ったのだが、気になったので翌日夜に実家に電話してみた。すると既に業者が来て修理済とのことで、一安心。原因は部品の老朽化で、ゴムの部品の交換だけで済んだらしい。

原因はともかく、きっかけになったのは僕の排尿なので、費用が気になって修理代も聞いてみた。

予想通り結構な金額で、14000円だったとのこと。

トイレに限らず、家電製品など修理に来てもらったときに払う費用は結構高い。その内訳の8割方は出張料と技術料というよくわからない費用だ。

以前は「不明朗で、ぼったくり」と思っていた。でもよくよく考えてみれば、電話一本で比較的早く来てくれるし、大概は持ち帰ることもなくその場でちゃんと使えるように修理してくれるし、それってすごいサービスなんじゃないかと思うようになった。外国はよく知らないけど、こんなのは日本だけのような気もする。

来てくれる技術者の人も大変だなと思うし、手際のいい作業を見てると「こういう人にはちゃんと対価を払わないといけないな」とも思うのだ。

話を戻して、さっきの出張料と技術料。

これがこういう技術者の人たちに支払われるとしたら、そんなに高くもないのではないか。それならきちんと払いたい。

ただ本当にそうなっているのだろうか。このお金の大半が、メーカー本体の売上として巻き上げられていたり、新製品を安く販売するための費用に回されていたりするかもしれない。だとしたらガッカリだ。

実際のところはどうなんでしょうね。

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善意の押し売り

昨日、ツイッターで佐々木俊尚さんが怒っているのをリアルタイムで追いかけていた。この件に関しては、佐々木さんと同じ考えだったので、僕も腹立たしかった。

詳細は下のリンクを見ていただきたいが、簡単にまとめるとこういうことだ。

原発事故の被災者に向けて、やたらとチェルノブイリ事故の健康被害報道などをツイッターで流す人たちがいるらしい。それが不愉快だという被災者の意見を佐々木さんが「こういう受け止め方をする人もいる」と紹介したところ、「無知」だの「現実逃避」だの反応がたくさん来て、それに対して佐々木さんが怒りの返答をした。

その中でいちばん僕が共感した佐々木さんのツイートがこれ。

福島の人を勝手に代弁して大騒ぎして何が生み出されるというのか。まず福島の人の声をきちんと聴くべきじゃないのか。福島の人を勝手に無知な弱者扱いしてる人がいるが、いったい何様だと思う。

わかりにくいかもしれないので、詳細はこちらを見てくださいね。

佐々木俊尚(@sasakitoshinao)さん、心ないフォロワーに怒る

このような人たちは、自分たちが善意でやっていると思っているだけにやっかいだ。だから表立って批判しにくいし、特に最近批判しにくい空気が蔓延している。このなんともいえない空気にいらだっていたこともあって、今回佐々木さんがわかりやすく言葉にして批判してくれたので、少しスッキリした部分もある。

ただこの手の人たちはいろんなところに結構いるし、本人は正義の味方気取りで、なかなか自らの非に気づかないので本当に困る。今回の震災でさまざまなデマメールが飛び交ったが、それを拡散した本人たちに聞いてみると「悪気はなかったんだから仕方ない」と言うのだが、善意ならば何をしてもいいわけではない。もうちょっと考えろよ、想像してみろよと言いたい。

今回の佐々木さんの件にしても、こういう人たちは相手のことをきちんと想像しようとしないのだろう。最初から、福島の人たちは無知でかわいそうな人たちだからという決め付けから入り、だから私が親切に情報を教えてあげようということだ。失礼もはなはだしい。

震災直後ならまだしも、もう電気もネットも復旧した今では福島でも原発事故に関するさまざまな情報が手に入るはずだ。非被災地の人間以上に敏感にそういう情報をキャッチしていると思う。子どもを持つ親なら、同じ学校の保護者仲間などでいろいろな情報共有もしているだろう。そして実際に行動を起こしている人もいるし、もちろん福島以外に既に避難した人もいるだろう。そういう状況で、いま福島にいる人たちがどういう覚悟を持ってその場にとどまっているのか。そういうことを、自称正義の味方たちは想像したのだろうか。多くの人は、さまざまな情報を知った上で、それぞれの事情も踏まえて行動しているはずなのだ。

もういい加減に、相手が無知だから正しい情報を教えてあげればいいんだ、そうすれば相手も正しく行動できるようになる、といった発想はやめよう。それは自分の価値観の押し付けだから。

こういうコミュニケーションの方法が良くないのは、今回のようなケースに限ったことではない。さまざまな場面で問題を起こしている。

これまで科学者や専門家の多くが「相手が無知だから正しい情報を教えてあげればいいんだ、そうすれば相手も正しく行動できるようになる」という考えで、一般の人たちに接してきた。その結果が、いまの科学技術不信の一因になっているのだろう。

行政にもそういう面があったし、今でもそれは続いているように思う。

情報や知識を知らない人に、正しい情報や知識を伝える必要があるときももちろんある。ただそれは、まず相手の状況や気持ち、立場をしっかりと想像してからだ。それでもやはり必要だと感じてからはじめて伝えていいのだと思う。

相手のことを考える想像力の欠如。これがいちばんの問題なのかもしれない。

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東京電力がお詫びCMを流してるらしい

僕は関西に住んでいるので見たことがないんだけど、原発事故以降ずっと東京電力が関東地方でお詫びCMを流し続けているらしい。自民党の河野太郎さんの昨日付のブログにも書かれていたので、おそらく今も流れているのだろう。

もし東京電力が広告費を払わずに、テレビ局が無償でCMを流しているのであればまだわからなくもないが、もし払っているとしたら許せない。そんなところに使う金があるのなら、原発事故の被害者への賠償金に回すのが当然ではないか。広告費を受け取っているとすれば、テレビ局も同罪だ。

その一方で東京電力は、多額の賠償金を独力で支払いきれないとして政府への援助を要請している。ということは、いま東京電力が持っているお金や資産は一銭たりとも無駄にはできないはずだ。広告費を出すなんてとんでもない話だ。

これまで民放テレビ局は、東京電力などの電力会社や電気事業連合会からの多くの広告費で潤ってきたのだろう。でも今回の件で、東京電力は資産のほとんどを賠償金に当てなければいけなくなる。そうなる前に、これまで仲良く富を分けあっていた者同士で、賠償金を払う前の資産をできるだけぶんどっておこうとしているように見える。これは持ち逃げにしか思えないが、言い過ぎだろうか。

民放テレビ局の社員の人に考えてほしい。自分たちの給料の一部が、本来原発事故の被害者にわたるはずの賠償金を横取りしているものかもしれないということを。

もちろんテレビ局は大きな組織なので、自分の部署で決めたことではないと言う人もいるだろうし、特に若い人はおかしいと思っても自分の力ではどうにもならないという人もいるだろう。そう言いたくなるのもわからなくはない。でも、もし今このことに違和感を持っていたり、ほんとはおかしいと思っていたりするのであれば、少なくともその気持ちだけは持ち続けていてほしい。そういう人が多くなれば、きっと大きな組織でも少しずつでも変えることができるはず。徐々に組織の論理に染まって違和感すら持たなくなる、そういう社員に絶対にならないでほしい。

今回のCMを流すことを東京電力の誰が企画したのかは知らない。最終決裁は役員クラス、もしくは社長かもしれない。ただ、おそらく広報部門が通常時と同じ発想で企画したものを、通常時と同じように申請して決裁されたような気がするのだ。民間会社でありながら役所のような組織だということもよく聞くので、「通常どおり、予算の範囲内なので問題ないだろう」くらいの意識だったのではないだろうか。あくまで想像に過ぎないが。

いま東京電力の広報部門がすべきことは、広告宣伝費を使ってお詫びCMを流すことではないはずだ。もし今年度の広告宣伝費の予算があるのなら、それを全額返上して賠償金に回すよう進言したっていいのではないか。役所的な組織では前例が無いことを通すのは難しいだろうが、いまは東京電力にとっても非常時のはず。無い前例なら作ればいいだけだ。

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ユッケ食中毒事件での違和感

焼肉チェーン店えびすで発生したユッケの食中毒事件。行政は規制強化の方向で動くようだ。

生肉食中毒:生食用食肉の衛生基準に罰則設定へ 厚労省

このチェーン店だけで起こった事件であり、衛生管理の体制に問題があったということであれば、このチェーン店が厳しい処罰を受けることに異議はない。

またこれだけマスメディアが規制強化を促すような報道を続ければ、行政が動かざるをえないことも理解できる。

僕が違和感を覚えたのは、新聞・テレビなどマスメディアに登場する街の声だ。「こういうことは国がちゃんと規制してくれないと」といったことを安易に言っている。

実際にはこんな意見を言っている人が少数なのに、それを目立つように取り上げて騒ぎをあおっているのであれば、マスメディアを責めたい。が、もしそうではなく、現実に多くの人がそう思っているのであれば、マスメディアを責められない。

調べたわけではないが、何となく後者のような気がする。だとしたら暗い気持ちになる。

そういう意見を言う人は、どこまで深く考えて言っているのだろう。安全・安心はすべて国が守ってくれるものだと思っているのだろうか。規制が増えるということは、それで余計な仕事が増えたり、無駄なコストがかかったりして、回りまわって結局多くの人の負担になるのに。

それに今回の件は、このチェーン店だけに起きたことだ。もちろん今後他の店で起きないという保証はない。でもほとんどの店は、衛生管理も徹底し、良心的に安全なユッケを提供してきていたはずなのだ。規制強化は彼らの首を締めることにもなりかねない。そういうことまで想像した上で、「国に規制強化してほしい」と言っているのだろうか。

それに規制強化したとしても、事故はゼロにはならないのだ。最近、食の安全を語るときに、規制を強化してそれが守られればまるで全てのリスクはゼロにできるという幻想を持っている人が増えている気がしてならない。

もちろん規制は必要である。しかしそれは適度な範囲で。規制を強くしすぎて、それで不幸になる人たちがたくさん出るようでは本末転倒だ。あとは消費者各々が、自分でよく考えて選ぶことが大切なんじゃないだろうか。それが忘れられてきているとしたら、規制をいくら強化しても誰も幸せにならない。

ツイッターで以下のような書き込みを見つけた。結構こういうことが本質なんじゃないかと思う。

焼肉えびすが仕入先に「五千万融資するから生肉用のライン作ってくれ」と言えば出来る。が何故出来ないかといえばユッケを一皿280円で出してるから。根本はここだと思うよ

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